RCEPにおけるDFFT〜電子商取引ルールへの導入

はじめに. RCEP締結と電子商取引の共通ルール

www.sankei.com

15カ国が参加する地域的な包括的経済連携(RCEP)交渉が2020/11/15に妥結しました。

このRCEPについて対中貿易赤字の拡大、有力国インドの撤退で加速されるASEANや日本まで巻き込む対中依存など、今後の国際的懸念が各分野から表明されていますが、この点について産経新聞

世界貿易機関WTO)が機能不全に陥る中、中国と知的財産や電子商取引の分野で共通のルールを持つ意味は大きい。日本は「中国を縛り監視する」(外務省幹部)ためにも、協定にとどまる必要があると判断。

という記事を掲載しました。この考え方は実際の交渉に関わった外務省や経産省の基本スタンスと思われ、上記外務省幹部だけでなく牧原秀樹前経産副大臣も自身のTwitter

mobile.twitter.com

〉日本が抜けたと想像すると、むしろASEAN10カ国を含めアジア経済は完全に中主導になります。日本が主導して作ったルールの下、中韓ASEAN、豪NZが法の支配に服する体制作りこそ意味があります

と記しています。

RCEPが国益に資するかどうか……数字に疎い私には条文を読んでも検討もつかないのですが、一つ気になったのは『電子商取引の分野で共通のルールを持つ』という言葉でした。


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1. 大阪トラック・DFFTお披露目のためのRCEP条文

この『電子商取引分野の共通ルール』、日本主導のものとしてはDFFT(Data Free Flow with Trust)つまり個人情報や非公開情報の機密性を確保した上での自由なデータ流通を提唱する大阪トラックがあります。
大阪トラック・プロセス|外務省

ただしこの外務省HPの新着情報にあるように、大阪トラックを電子商取引の国際ルールとするための活動は今年1月以降休止され、安倍政権末期には殆ど話題に上がらなくなっていました。当初は2020年6月のWTO閣僚会合をもって実質的進捗を示すべく活動がなされていましたが、閣僚会合自体がコロナ影響下で2021年まで延期されています。


……このまま安倍首相辞任をもってそのまま下火となってしまうかと思われましたが、茂木外相留任時の記者会見で大阪トラックへの言及が為され
www.mofa.go.jp

また菅首相の初外遊となったベトナムインドネシア外遊の際にもDFFTを取り上げるに至り、菅政権が大阪トラックやDFFTを改めて推進する意向である事が明らかになりました。
www.mofa.go.jp

菅政権のデジタル政策といえばデジタル庁など国内整備面のみ指摘されますが、これも「国内整備はどうなのか」と日本主導のデジタル外交が批判される事を防ぐ為の措置ではないか、そういう見方も出来るのです。


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特にRCEPは、菅政権発足後初めての多国間経済連携協定にあたります。
日英包括的経済連携協定(EPA)|外務省のような先進国2カ国間の電子商取引協定はありましたが、後進国やデジタル面で日本と異なる政策を進める国家を含めた多国間協定は初めてです。

その意味で今回のRCEPの電子商取引協定は、大阪トラックやDFFTが国際ルールとして今後どの程度参加国を組み込み得るかの試金石となります。

特にWTO会合で理論的な進捗を開示出来なかった都合もあり、実際に大阪トラックが国際協定で採用・展開される場合のテストケースでもあった訳です。つまりRCEPに留まらない「日本主導のルール」の象徴がこの電子商取引分野だった訳で、その内容は関係者側が示唆する対中牽制・ASEAN誘導の面だけでなく、日本主導のルールが今後世界を牽引しえるだけの完成度や理想を持つものなのか、という点で重要でした。

更に言えばRCEP妥結後には11/20のAPEC首脳会談、11/22からのG20サウジアラビアサミットが続きます。

一般的に「インドの参加まで日本側が渋ったのに中国・ASEAN側の意向で妥結が前倒しされた」とされるRCEPですが、この時期での妥結はAPECG20を現実化されたDFFT制度の披露の場とする好機にもなっていたのです。

この時期に間に合わせるための締結だったかどうか、証拠は在りませんがまあ偶然とも思えませんね。


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2. 電子商取引条文の詳細とDFFT交渉の問題点

さて、このような視点からRCEP条文を確認すると
www.meti.go.jp
https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100114915.pdf

電子商取引分野はこちらのP795〜811、第12章に記載されています。


主な内容としては電子的取引への不必要な国内規制の緩和・電子的送信に対する関税賦課の禁止・コンピュータ関連設備の設置要求の禁止・電子署名の法的正当性の認定・個人情報や消費者保護などと共に、電子情報越境への妨害禁止について記されています。

これ自体は主に個人情報やサイバーセキュリティに関するTrustを含めたData Free Flowであり、大阪トラックの形で提唱された日本主導のDFFTに則るものです。

しかし、中身を見ていくといくつか注目すべき点が見つかります。


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1)一部国家の適用猶予

  • カンボジアラオスミャンマーについて5年間、5条貿易文書の電子化・6条電子署名有効性認定・7条消費者及び8条個人情報保護法令採用・9条商業電子メッセージ送信者への措置遵守規定・14条自国領域事業者に対するCP設置利用要求の禁止・15条電子情報の越境に対する妨害廃止(追加3年措置あり)の猶予
  • ブルネイについて3年間、14条自国領域事業者に対するCP設置利用要求禁止措置の猶予
  • カンボジアについて5年間、10条国際条約に準じる電子取引への国内規律採用の猶予
  • ベトナムについて5年間、14条自国領域事業者に対するCP設置利用要求の禁止・15条電子情報の越境に対する妨害廃止措置への猶予

……ベトナムとその他国家で様相が異なるのは、他4国の場合は個人権利保護を含めた法的システムが未だ整備中であるためなのですが、ベトナムの場合は2019年に施行されたサイバーセキュリティ法がデータ・ローカライズ強化の色彩を帯びていると認識されたためではないかと思われます(後に同法の適用範囲を犯罪に限定する旨発信されました)
www.businesstimes.com.sg


2)17条紛争解決手段の設定

  • 電子商取引の枠組みに関する締結国間の解釈相違については、国家間或いはRCEP合同委員会での協議で行うものとし、WTOパネルに準じる紛争解決方式は採択しない

……その他いくつかのRCEP条項でも採用されていますが、同枠組みでも協議による柔軟な解決を謀る形としています。


3)14条・15条データ・ローカライゼーション廃止に関する例外規定

  • 14条自国領域事業者に対するCP設置利用要求・15条電子情報の越境に対する妨害それぞれについて、公共政策の正当な目的達成あるいは安全保障上の重要な利益保護に関する場合は例外とする

……前者は「恣意的若しくは不当な差別の手段となるような態様で又は貿易に対する偽装した制限となるような態様で適用されないことを条件」つまり他国からの指摘の余地があるものの、後者については「当該措置については、争わない」とし、データ・ローカライゼーション国家の独自政策維持と(17条と合わせて)他国からの不干渉を実質認めた形となっています。


4)8条個人情報保護に関する各国法的枠組みの方向性

  • 〉各締約国は、個人情報の保護のための自国の法的枠組みを策定するに当たり、関係する国際的な機関又は団体の国際的な基準、原則、指針及び規準を考慮する


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1)2)3)までは参加各国の法的整備水準やデータ管理政策の相違に応じ、幅を持たせた妥協であったと解釈する事も不可能ではありません。

特にDFFT・大阪トラック外交をFOIPと並ぶ日本の交渉大国化の柱と警戒する、中国等の牽制があったとも捉えられます。またDFFTと対称的なデータ・ローカライズ及びデータの国家責任を唱えるインドが、今後RCEPに参加する際の布石としていくつかの逃げ道を確保したという捉え方も出来るでしょう。

しかし4)の一節は……前述の日英包括的EPAでの一節と比較すれば明らかなのですが……これらの妥協が単なるRCEP条文早期成立のための戦術に過ぎず、参加国の独自性を許容はしても尊重する意志が無いことを示しています。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100111404.pdf

〉各締結国は、個人情報を保護するために両締約国が異なる法的な取組方法をとることができることを認めた上で、このような異なる制度の間の一貫性を促進する仕組みの整備を奨励すべきである。当該仕組みには、規制の結果の承認(一方的に与えるものか相互の取決めによるものかを問わない。)又はより広範な国際的な枠組みを含めることができる。このため、両締結国はその管轄内で適用される当該仕組みに関する情報を交換するよう努め、及び当該仕組みその他の両締約国間で一貫性を促進する適当な取決めを拡大するための方法を探求する(P281 80条個人情報の保護より)


……対英国では相手国の法的枠組みへの敬意や尊重、また両国で一貫性を持たせる事を視野においた二国間交渉も条文に盛り込まれました。

しかしRCEPにはそのような記述はなく単に国際機関(平たく言えば欧州)による基準を基にした法的枠組み策定へ注力せよ、としている訳です。日本側の大阪トラックやDFFTに関する自負と裏返しの、RCEP参加諸国の電子商取引取組に対する軽視が浮き彫りとなっている、そう考えて良いでしょう。


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今回の交渉に参加した閣僚からは、日本主導の国際ルールを通じたRCEP参加国による法の支配体制作りに貢献した、そのような旨の発言が出ていたことは文章の最初に触れました。

しかしDFFT条文を読む限り……一部から全体を把握するやり方が正しいとは言い切れませんが……自らのルールを他国に押し付けた、また拙速な妥協を提示し本質的義務化への交渉に見切りをつけた、そういう日本側の対応が想像出来ます。

かつてRCEP交渉からインドが離脱した理由も、日本では主に対中貿易赤字の拡大懸念の点のみクローズアップされていますが、前述したデータ・ローカライズ及びデータ国家主権政策を維持するインドがRCEPのDFFT導入に反発したことも一因とされています。それもDFFT自体ではなく、表面上の締結に拘りDFFTの論点をあやふやにする日本の姿勢にです。

※現在インドはEUとのFTA交渉にあたり、相手国とのDFFTには前向きな対応を示しています。これはDFFTのwith Trust部分、相手国の法的整備や性格に対する信頼を担保した上で自国データとの流通が与える利益を交渉の武器とする、インドなりに一貫性のある対応なのです。
www.medianama.com


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……安倍政権時代のレガシーではありますが、日本はいまだ政治的立場や経済的優位を追求しないフラットな立場から、国際的枠組みの決定に重要な役割を果たし得る状況にあります。しかし今回のような拙速さと説得力の欠落を露呈する事態が続けばRCEP参加国間は勿論、本丸となるWTO改革においても国際的求心力を失う事になりはしないか。少し心配ではあります。

まぁ今はただ、これからの粘り強い交渉に期待しましょう。


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……すみません。言い訳ばかりですが、ここ数ヶ月安倍第四次再改造政権の回想関連の文章ばかり書き続けています。本当はそこに目処がついてから、菅政権の活動について触れて行きたいのですが……。