2020年版外交青書:『普遍的価値』への回帰

はじめに


2020年版外交青書・要旨(外務省HPより)


※※※※※※※※※※※※※※※

5/19に外務省HPに、今年度版の外交青書の要旨が掲載されました。とはいえ、今年の青書については皆さん今いち関心が薄いようです。


現状全世界が新型コロナの影響下にあり、各国の外交が今後の国際情勢に向けたアイドリングと牽制の状態にあります。青書の形で記された外交方針は、今後の国際情勢に応じて大幅な変更を余儀なくされるでしょう。


それ故に、今後の茂木外交を2020年版外交青書から推測するのは、およそ的外れで危険な行為ではないか、と多くの方々が考えたのではないでしょうか。


……でもそういう世間に逆行する形で、私はあえてこの2020年版青書から、ひとタイミング前の茂木外交をほじくり返してみようと考えました。死んだ子の年を数えるような不毛な行為が、私は大好きなのです。


※※※※※※※※※※※※※※


※※※※※※※※※※※※※※

1. 「基本的価値」から「普遍的価値」へ


一般的には、韓国について「重要な隣国」という表現が復活したことや、台湾のWHOオブザーバー参加への支持、また北方四島への言及を改めて行ったことなどが指摘されているようです。

www.google.com


………………………………………

※まあ韓国については、茂木外相の5/19会見(外務省HP)


〉個別の記述についてどうだということよりも,全体のトーンとして,今,日本の外交がどちらの方向に向かっている,こういう観点で,是非ご覧いただきたい


中央日報の記者に語った通り、今回の要旨ではどのような方針で韓国に対応していくか、日本側の方針に全く言及していないことの方が重要ではないかと。


……というより「重要な隣国」という一国を表現する単語ひとつをもとに、対韓外交の姿勢を読み取るスタイルは、一昨年辺りをピークに下火になっているかと思います。


そりゃ昨年の記者会見でも

www.mofa.go.jp


東亜日報 金記者】外交青書に戻りますけど,日韓関係の部分について,「未来志向」という表現が消えましたけれども,この部分について説明していただければ幸いです。

【河野外務大臣】「未来志向」が消えた?(以下略)


……こんなやりとりがあれば、単語ひとつの言葉尻をもとに(実際の外交内容はもちろん青書に記載された内容すら碌に目を通さず)国家間の外交を語ることのバカバカしさを皆さん悟ったことでしょう。



※※※※※※※※※※※※※※※

さて、個人的には冒頭の一節こそが今回の最も重要な変化ではないか、と考えています。


〉日本が政治、安全保障及び経済上の国益を確保し、自由、民主主義、人権、法の支配といった普遍的価値に基づいた、日本にとって望ましい国際秩序を維持・発展させていくためには、国際情勢の変化を冷静に把握し、その変化に対応しながら、戦略的に外交を展開していく必要がある。


……昨年度の外交青書では


〉日本が政治、安全保障及び経済上の国益を確保し、自由、民主主義、人権、法の支配、国際法の尊重といった基本的価値に基づいた、日本にとって望ましい国際秩序を維持・発展させていくためには、国際情勢の変化を冷静に把握し、その変化に対応しながら、戦略的に外交を展開していく必要がある。


だったのですが、

  • 基本的価値から普遍的価値へ


と二つの点で、表現を変更しています。


………………………………………

実はこの冒頭部分、2016年版外交青書から原則同じ文面で続いているのですが、2018年版より「普遍的価値(UniversalValue」の言葉が「基本的価値(FundamentalValue)」に変わり、更に2019年版で初めてその要素に「国際法の尊重」が加わりましたが、これは当時岸田元外相から河野前外相に交代した事が理由と考えられます。


2018年版以降、続く『情勢認識』の冒頭で


〉日本を含む世界の安定と繁栄を支えていた自由、民主主義、人権、法の支配(2019年版では“国際法の尊重”が加わります)といった基本的価値に基づく国際秩序が挑戦を受けている。


という文面を加えたことと共に、河野前外相の国際情勢の認識あるいは理念を表明していた、と推測出来るのです……が、2020年版では「国際秩序への挑戦」という表現そのものは変えないまま、その構成要素を2017年版以前のものに戻した形となっています。


ただしこの「普遍的価値」への回帰は、単に河野前外相以前の表現に戻したというだけではなく、茂木外相による“特定対象に向けた”新外交の表出ではなかったか、と思われるのです。



※※※※※※※※※※※※※※※

2. 対露外交と「国際法」記述の消去


実のところ、基本的価値や国際法といった記述に関しては、日本が想定する国際秩序の側に属さない陣営から非難があります。その代表がロシアです。


www.mid.ru


〉残念ながら、多極的でより民主的な世界の出現を好まない人々は、このプロセスを妨害しようとします。あなたが気づいたなら、私たちの西洋の友人は国際法の言語を使うことがますます少なくなっています。代わりに、彼らは法の支配に基づく国際秩序と呼ばれる新しい概念を生み出しました。
(第7パラグラフの一部より拙訳)


……ロシア・ラブロフ外相によれば、国際社会は

  • 国際法、あるいは現行国際法の規範となる国連憲章に則った領土問題の解決や、内政不干渉の原則のもと自国の権利を“正当に”行使する国家と
  • 新たな国際秩序を唱えることで国際法国連憲章を軽視し、更に他国への干渉を行おうとする一握りの国家


この両者による対立下にある、と定義しているのです。言い換えれば、国連が生まれた第二次世界大戦直後の状況こそが遵守すべき国際法の規範であり、どのような言い分にせよそれを動かす事こそ本来の国際秩序への挑戦である、と主張している訳です。


それ故に220年版青書では、彼らに揚げ足を取られかねない「国際法の遵守」という表現を避け、また譲歩の余地がない印象を与える「基本的(Fundamental)価値」から、「普遍的(Universal)価値」に表現を切り替えることで対応の柔軟化を図ったのではないか、と考えられるのです。


……………………………………

事実、今回の青書の記述……「北方四島の帰属」という表現の復活に際し、ロシア報道官が噛みついて来た一件があります。


www.mid.ru

 
〉千島列島に関する全ての法的主権は、国連憲章を含む国際法的文書に基づき、第二次世界大戦の結果としてロシア連邦に属します。そしてこの事に異議を唱えることはできません
(下の方、記者との質疑応答3つめ)


WW2により常任理事国の地位を手に入れた国連の権威を、そのまま領土主権の後ろ盾とする論理は、一般的には北方四島の主権を主張する際の伝統的手法と受け取られております。


しかし、実は国連や国連憲章の活用は領土主権だけではありません。今回の彼女の論理はそのまま上述したラブロフ外相の論理なのです。国連の権威と内政不干渉の原則を盾に、諸外国への進出の正当化を図るというロシア或いは中国……「法の支配に基づく国際秩序」への挑戦を主導している国家特有の基幹論理に従っているのです。


そしてこの論理は、北方四島の帰属問題のような二国間関係で自らの正当化を図るだけではありません。寧ろ新たな国際秩序を作ろうとする欧米中心の国家群に対抗するため、国連憲章国際法に基づく内政不干渉や発展途上国優遇を武器とする国家群を形成するのに有効な論理なのです。


つまり、この二つの論理による闘争のメインフィールドは北方四島のような二国間交渉ではなく国際協議の場、たとえば国際貿易の協議の場であるWTO改革になると考えられるのです。


国際協議で二つの陣営が論理を競う場合、いかに中立の国家を引き込むかが重要になります。事実、ラブロフ外相は「法の支配に基づく国際秩序」は発展途上国優遇措置の見直しを迫るものだと主張し、WTOでの途上国取り込みを図っております。


中立の国家を日本側に引き込み、WTO改革など国際協議の場を有利に進める。その一点に目標を絞るなら、相手国の民主化支援や国際秩序への理念面の賛同を求める事すら、彼らの取り込みへの障害となりかねません。


それ故に、今回の外交青書で表現を緩めたのは、中露との二国間関係への配慮というよりWTO改革という果実を得るためあえて国際的対立の旗頭となる「基本的価値」という言葉を排除、中立国や対立相手国との妥協を図ったものと思われるのです。


………………………………………

……とはいえ青書に記された日本外交像は、アフターコロナ時代に継続されえるものか、と考えると少々難しいです。寧ろ高度な柔軟性を維持しつつ行き当たりばったりで頑張って欲しいところてす。



※※※※※※※※※※※※※※※

※なお2020年版青書の要旨では、WTO改革についてはそれほど重要な記述はされておりません。茂木外相自身が記者会見で語ったように、外交青書は2019年の国際情勢や外交を示したものだからです。外務省HPにおける連載企画が始まったのと同様、WTO改革に向けて活動を具体化したのは、原則青書の対象外となる2020年からなのです。

同様に、茂木外相が独自の外交方針として打ち出した「包容力と力強さを兼ね備えた外交」について、要旨では全く触れられていません。これも今年1月の第201回国会外交演説で、初めて公式に発表された概念だからです。



※※※※※※※※※※※※※※※

おわりに. ダビデ像の例え


www.mofa.go.jp


ところでこのロシア報道官の発言に対し、朝日新聞記者より記述変更の理由についての質問がありました。これに対し、茂木外相はあらかじめ

  • 領土問題を解決して平和条約を締結するという基本方針は以前から変更していないこと
  • 外交青書の記述はその年度の国際情勢を踏まえた日本外交の概要を記したもので、全体像としての日本外交を見ることが基本的に重要


と前置きした上で、謎めいた例示を示します。


ミケランジェロダビデ像,これを見ると,頭部が大きいんですね。左の膝は若干小さいんだと思います。それは下から見上げたときに,いかにリアルな人間の姿に近いかと,こういうことで天才ミケランジェロが描いているわけでありまして,そこで頭が大きいとか膝が小さい,こういう議論より,いかにこれが人間というものをリアルに表しているかと,こういった形で見るのが正しい見方だと思います。


この例示に対し、朝日新聞記者は

  • 日本外交の全般についての比喩
  • 日露関係に関連する記述に関わらず、日本の立場に変化はない


と、外相の前置きそのまま、まるで青書での記述の違いが日露外交の方針と無関係であるような解釈を行いました。この朝日新聞側の解釈について、外相側も特に否定はしていません。


……………………………………

……しかし、この解釈には疑問が残ります。


ミケランジェロは鑑賞者から見た全体のバランスをリアルに表現するため、意図的なデザインを選択しました。外交青書の言葉一つ一つが同様の意図を持っているならば、日本外交の全体像をリアルに表現するため、深い意図を持ってその言葉一つ一つを選んだという事ですから。


そして日本外交のリアルな全体像とは、二国間関係だけではありません。日本が世界各国に働きかけている外交方針と、同様に相手国が各国に展開している外交の接点や齟齬、それらの複合体であることを念頭に入れて把握すべきものなのです。


朝日新聞その他、外交青書の表現一つの変化に騒ぎ立てた多くの人々の問題は、その変化一つから当該相手国との二国間外交方針を覗き込もうとした事でしょう。ダビデ像の例えは、その年ごとの表現の変化は二国間外交方針ではなく、日本外交全体の方の変更を見るための鍵だという事ではないでしょうか。



※※※※※※※※※※※※※※※

今回の文章は、ある程度第201回国会における茂木外相の外交演説を参考にしています。もし宜しければ、そちらについて記した文章もご覧頂ければ幸いです。

tenttytt.hatenablog.com



※※※※※※※※※※※※※※※
………………………………………

本当のおわりとおわび


……すみません。前回まで続いていたWetMarketの話は一旦休みです。本当はそちらの話を優先して書き上げるべきなのでしょうが、実は外交青書を読んでたら気が付いた事がありまして……


tenttytt.hatenablog.com


NDPIってなんだよNPDI(Non-Proliferation and Disarmament Initiative)じゃないかぁぁ!これだからスマホの予測変換はぁぁぁあ(八つ当たり)!!

謹んでお詫びと訂正いたします。